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前ノ沢番楽「曽我兄弟」について

今年も半年が過ぎようとしています。

この地方では今が最も過ごしやすい時期ではないでしょうか?

さて、以前ここでご紹介させていただいた「前ノ沢番楽」の第二段として、管理人が18歳頃に習った「曽我兄弟」という演目についてお話したいと思います。

この当時、あちらこちらの行事やお祭りなどで盛んに出させていただきましたが、その後諸事情で全く演じられる事がなくなってしまいました。おそらく30年は経過していると思われます。この演目を教えてくれた師匠も他界され、自らの記憶をたどるしか復活の道はありません。ところで、歴史上実在した「曽我兄弟」とは、いかなる人物だったのかみなさんご存知でしょうか?私管理人も全くと言っていい程わからなかったので、少し調べてみました。

まずは時代背景ですが、鎌倉時代初期ということですので、この時代の代表人物は「源頼朝」という事になります。なぜ曽我兄弟が有名なのか?というと、一言では「仇討ち」、親の仇をとった人物として世に語り継がれています。日本三大仇討ちの一つで、最も有名なのが主君の仇討ちをした赤穂浪士、「忠臣蔵」とくれば、大方のみなさんが納得されるのではないかと思います。もう一つが「伊賀越えの仇討ち」だそうです(内容は省略させていただきます)。

兄、曽我十郎祐成(すけなり)、弟、曽我五郎時致(ときむね)の兄弟です。一族の所領争いで、工藤祐経(すけつね)の恨みをかった祖父(兄弟の)の暗殺計画だったのですが、放った矢は兄弟の父に当り、死んでしまいます。この時兄5才、弟3才と幼く、母は曽我祐信(すけのぶ)と再婚したので、「曽我」を名乗っています。元々は「河津」(かわず)姓でした。父、河津祐泰(すけやす)は剛力無双で、相撲の決まり手「かわずがけ」の名を残した人物とも伝えられているそうです。

幼い兄弟の生活は決して楽ではなく、むしろ厳しかったようです。また肩身の狭い思いもしたと伝えられています。

源頼朝が富士の裾野で盛大な巻狩り(大勢の人が獣を中心に追い込む猟)を開催しました。兄弟の仇である「工藤祐経」も参加しており、仇討ちのチャンスが巡ってきます。兄弟は祐経の寝所を襲い、見事18年目にして親の仇を討ちました。

しかし、騒ぎを聞きつけて集まった武士たちに勇敢に立ち向かい、10人斬りの働きをしますが、ついに兄の十郎は力尽きて討たれてしまいます。弟五郎は頼朝の館に押し入ったところを取り押さえられました。

翌日、五郎は頼朝の面前で堂々と仇討ちに至った心底や、頼朝の館に侵入したのは「鎌倉殿に一矢報いるために見参した」と言い張り、頼朝はその武勇を惜しみながらも死刑の決断をしたと言われております。

兄22歳、弟20歳の短い生涯を終えました。今から816年前の5月28~29日の出来事でした。文武に優れた武将として、また悲しい生い立ち、仇討ちへの執念、潔さなどが民衆の心を動かし、今に伝えられていると考えられます。芸能分野では能や浄瑠璃などで取り上げられ、数多くの作品が生まれているそうです。

鳥海の番楽の中にもこの優れた兄弟武将物語が伝えられているという事になります。

さらに詳細を調べて行くと、兄弟一族の争い(祖父よりさらに先の代からの)、頼朝との因果関係、この時代の大物達によるクーデターに巻き込まれてしまった可能性など、様々な事が考えられるようです。興味のある方は是非調べてみて下さい。

前ノ沢番楽の曽我兄弟は「曽我」と呼ばれ、舞手が二人、面をつけ、扇、刀などで舞う典型的な「武士舞」です。

今後の復活に向けてがんばって行きたいと思います。

*前ノ沢番楽「曽我」に使われる、面、扇、刀です。舞は「信夫」(しのぶ)を撮影したものですが、曽我でも全く同じ衣装や面をつけます。二人で舞う事と舞の内容としては、動きの激しいものとなっています。

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*「信夫」の舞い手は、保存会メンバーの柴田輝雄氏です。

30年の時を超えて、復活できるよう、がんばって行きたいと思います。

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